平堀地蔵堂のジサバサ
いつのことだか思い出してごらん。あんなこと、こんなことあったでしょ。
春になると思い出す歌と共に思い出した話は、2012年夏のこと。今が2015年の春先なので、2年半も前のことです。阿賀町へ見仏に出かけました。目的は、平堀地蔵堂のジサバサと即身仏 全海上人、そして鍾馗さまめぐり。
山の中で車を側溝に落としてしまい、炎天下の山中、家族3人レッカーが来るまでの二時間半。泣いてしまいそうな酷い旅でした。
そんな思い出とともに封印しかけていた平堀地蔵堂のジサバサですが、ほんとに素敵な仏像でしたので、かろうじて残っていたメモからざっくりと書き残しておこうと思います。その使命感たるや。
メモの先頭には「11時厳守。お風呂道具を持っていくこと。晩飯。」と書いてありました。
朝早くに家を出て、阿賀町の町役場に向かいました。事前に問い合わせたところ、時間厳守であれば対応していただけるとのこと。
当直だった親切なお兄さんに、お堂を管理している区長さんのお宅へ向かうための地図を頂き、まずは区長さんにご挨拶。その後、区長さんと共に元区長さんのお宅を訪ね、地蔵堂へ向かいました。地方の仏像見仏でときたま発生するクエストモードです。
区長さんも元区長さんも同じ苗字で、頂いた住宅地図にも同じ名字がズラリと並んでいました。メモには「この地域には現在、230の家がある。そのうち昔からの家は36。そのうち17の家が最も古いらしい」とあります。恐らく「なんで同じ苗字のお宅ばかりなんでしょうか?」と質問した結果がこのメモなんでしょうが、2年半の歳月がクエストよろしくこの有り様の暗号です。いつもなら資料などはファイルに保管しておくのですが、その中にも頂いた住宅地図は既になく、あれもこれも側溝に落ちたせいです。
扉の隙間から入れられたのでしょう、お賽銭が落ちたままの畳にあがり、中央のお地蔵さんに対峙しました。南北朝時代の寄木造りで像高135cm。台座も入れると2mほどで、天井が低いせいもあり実際の大きさよりも大きく見えました。県の有形文化財に指定されています。
桂材で漆箔および古色。白毫は銅製、玉眼は水晶製で各はめ入り。昭和30年(資料によると正しくは36年か?)に県の学術調査団が調べたら、像の背内面の下に墨書が書かれた木札が打ち付けてあった。しかし、肉眼では読めない状況だったので、県警に持ち込み赤外線で鑑定したところ、文和4年(1355)に伊勢頼朝(59歳)が彩色、慶安4年(1651)に岩橋七良左衛門によって塗り替えられたということがわかったのだという。更にその後、会津の武士が膝をなおしたということもわかったらしい。
そして、脇持の2躯。倶生神坐像と閻魔天倚像です。地元ではジサ(閻魔)、バサ(倶生神)と呼ばれて親しまれているこのお像は、本尊の地蔵様おより時代は遡り、鎌倉後期のものだそうです。
バサと呼ばれる倶生神坐像は像高85cm。カツラの一木造りで玉眼入り。
(略)
木芯を左足内側に籠めた(こめた)カツラの一材から頭部の幹部を彫出し、面相部を割矧いで(わりはいで)玉眼を嵌入(かんにゅう)し、両手先を矧付ける。表面は白下地に彩色とするが、顔の一部に赤が残る他はほとんど剥落する。巾子(こじ:冠)の前半、両手首先、左沓、右沓先は後補である。
本像は冠や服装、憤怒の表情や両手で巻物を広げる形から冥府の役人である司命、司録のうちの司命像であると考えられる。本像の片膝を下につけて坐る形は司命像としては他の例がなく、また胸前に衣服の皺数条(すうこう:すじが幾つか)を大きく表したり、袍(ほう:日本や中国などで用いられる上衣)の裾をたわめたりすることも珍しい。伝閻魔天像の坐形や波打つ鰭袖(はたそで)の形とともに新しい図像によるものかもしれない。
材質や一木造りの構造、作風から先の伝閻魔天像と一具であると考えられるが、表現は本像のほうが誇張が少なく、堅実な作風といえるであろう。力の籠もった表情は鎌倉期の彫刻らしい生命力を感じさせ、在地の作ではあろうが佳品とすることができよう。2006 新潟の仏像展 図録より引用(一部サイト管理人がフリガナや補足を加筆)
ジサと呼ばれる閻魔天倚像は像高107cm。三部に分けての寄木造りで玉眼入り。
(略)
頭体の幹部は両上膊部(じょうはくぶ:上腕部)を含んで木芯を右胸脇辺に含んだカツラの一材から彫出し、面相部を割矧ぎ(わりはぎ)玉眼を嵌入(かんにゅう)する。これに鰭袖(はたそで)の前半を含んだ右前膊部などを矧付ける。左右の脚部は一材製。両足先各矧付け。表面漆塗りの上に彩色をするが衣に赤が残るほかは多くが剥落する。玉眼、上瞼、左耳、顎、両手首先(右手第三~第五指は古い)、両脚部間の衣部、沓は後補である。
本像は冠の形や服制から冥界の王である閻魔王あるいは十王の一体であると考えられる。死者の追善を目的とする閻魔王を中心とする十王信仰は鎌倉時代以降広まったものである。本像のように倚像(椅子などに座った像)とするものは十王図には例が多いが、彫像では他には奈良金剛山寺像くらいで珍しい。
頭部を大きく作り視線を下に向け、それに比して体部は背を丸め小さく作る。面相は眉目鼻を大きく作り迫力ある表情をみせるが、その大づかみな表現感覚は追儺面(ついなめん:鬼追いの行事などに用いられた鬼面)のような鬼面に近いものがあり、樹種とも合わせて在地での制作を思わせる。姿勢、体形や面貌表現から制作は鎌倉時代後期と思われる。
(略)2006 新潟の仏像展 図録より引用(一部サイト管理人がフリガナや補足を加筆)
玉眼の入れられた仏像は数多くありますが、仏様の顔と言えば大半が薄目を開けた半眼。このようにカッと大きく目を見開いた表情は、リアリティを追求するためにと発明された玉眼入りであっても、どことなく漫画的な印象を受けます。衣紋をはじめ顔の作りなども細かいとは言えませんが、その表現の仕方は大胆で、丸みを帯びたエッジが冥界の像にも関わらず優しい雰囲気を醸し出しています。
このお堂、元々は現在の場所から少し離れた会津街道沿いにあったそうなのですが、江戸時代に大雪でつぶれてしまい、その後、この地域を見渡すことのできる今の場所で再建されたそうです。鎌倉時代にさかのぼる閻魔十王像の所在のうち、神奈川県円応寺、京都宝積寺閻魔堂はもともと街道筋にあったといわれ、中世の閻魔信仰の資料としても重要なもの。
毎年8月16日にお祭りが行われ、その少し前、8月13日からお盆の間はお参りができると教えていただきました。
記事を書くために記憶を呼び起こそうとfacebookで当日の投稿をさかのぼってみましたら、浮かれた投稿が残っていました。昔書いた文章、特に浮かれた文章からは、言いようのない物悲しさを感じます。真夜中のラブレター。
案内してくださった区長さんに別れを告げ、近くを走るSLを見ながら手作りのお弁当を食べました。家族3人、楽しかったな。弁当うまそうだな。ミートローフだったかな。
その後、即身仏 全海上人にお参りをしたあと、車が側溝に落ちました…
帰宅から二日後の投稿では「息子がミニカーを使って『お父さんの車、落ちちゃった』ごっこをしているらしい…」とありました。
2012.7.8
平堀地蔵尊
仏像 | 県有形文化財 木造地蔵菩薩坐像・木造閻魔天倚像・木造倶生神坐像 |
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場所 | 新潟県東蒲原郡阿賀町平堀 |
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あぁ、すばらしい仏像だ。
どーんばーんとしていてそれも南北朝時代のものがここに残っているとは。
あぁ、すばらしい。
そして、毎度のことながら、素晴らしい文だ。
コメントありがとうございまーす!
こちらの倶生神、閻魔様は特にいいですよ。この丸みを帯びた、それでいて調和の取れたフォルムは、新潟ではなかなかお目にかかれません。
オススメですよー。