般若心経を唱えられるようになってみたくて
ふと般若心経を声に出して唱えてみたくなりました。
そう思ったのは何年前のことだろう。恐らく、どこかの霊場巡礼系のお寺に仏像を見に行ったときのはず。先客が唱えている般若心経がえらく格好良く聞こえて、私も「アレをやってみたい」と思うのと同時に、かなり遅れて”札所では般若心経や真言を唱える”という遍路のフォーマットを知った。
仏像が好きと言っているくらいなので、普通に生きていても般若心経という単語は耳に引っかかるようにできている。NHK教育の番組であったりタモリ倶楽部のお経特集であったり、通常ルートとは多少ずれているなと思うところもあるけれど、声の雰囲気であったりリズムであったりは純粋な格好良さを感じ、その中身も知りたいと思うようになっていた。
今年は日々を生活の手綱を少し緩めてみた。数年前からもうちょっと人生に成果を出してみたいと思い、月の初めに目標を定めたTodoリストをつくることにしていたのである。漠然と生きるのではなく、細かく目標を定めそれをクリアしていくことで、気づいたときには大きな成果を得ているのではないか。俺ってビッグになれるのではないか。日々の小さな成果が大きく実を結ぶのは私の大好きなサクセスストーリーそのもので、目指す摩天楼はバラ色である。
結果的に日々目標を消化するの追われ、疲れただけだった。
「税金を払う」とか「子供のお遊戯会」とかそんなことを目標に定めていたのが悪かったんだと思う。今思えばそれは目標ではなく、半ば必須のイベントではないか。
やはり私には漠然と生きるのが向いている。
肝心のイベントごとについては、覚えていたら必須の出来事であり、忘れていたのならばトボけてしまう作戦をとるのが効率的ではないか。そんな風に我が社も生産性をあげるべく、生活のリストラクチャリングにナタをふるった矢先に、Facebookに思い出させられた。
何年も前に「般若心経を理解してみたい」と呟いたところ、友人に玄侑宗久氏の現代語訳般若心経を勧められていたのだった。ご丁寧にも「わ、ありがとうございます!ToDoに登録して今度読んでみます。」などとコメントを返していたのだが、ToDoには登録していなかったようだ。
トボけるのはともかく、忘れることを許してはくれない世の中になりつつあるようだ。
現代語訳 般若心経 / 玄侑宗久
難解な般若心経を現代語訳ではあるけど難解な言い回しで解説したという印象で、頭が受け付けなかった。「知識差があるとき、人は普通に会話しているだけで馬鹿にされているという気持ちを持つ」と聞いたことがあるが、私の頭脳は比較的残念な感じで、なおかつ恐るべし卑屈な精神の持ち主なので、読んでいて消えて無くなりたくなった。
やはりここは卑屈な精神はそのままに「私は人間に見えているようでいて、ひょっとしたらゴキブリかもしれない。故に、ここに書いてある内容が理解できなくてもやむ無しだけど、人類が滅んでも私は生き残れるはずだ、ワハハハ」と受け止め方を変えるべきだったと思う。
般若心経絵本 / 諸橋 精光
絵本作家でもある長岡市にある千蔵院のご住職、諸橋精光氏の著書。
タイトルのとおり般若心経を概念を絵本の世界で表していて、読みやすい。だからこの絵本を読んで般若心経を理解できるのかというと、そうでもないところが難しい。ただ、「意訳なんだろうな」と感じる部分も多いのだけど、絵本の世界が般若心経の世界観をうまく表しているという実感は確実にあって、絵を見ながら般若心経の文字を読んでいるとスッと心が落ち着く瞬間がある。読みやすいので3回読んだ。
図説 お経の本 (洋泉社MOOK)
いろんなお経を二ページづつ解説。たった二ページなんだけど、その分エッセンスが凝縮してて「さすがムック本は眺めただけで賢くなった気がする」と、悟りを開いた。色即是空と五蘊を中心に解説していて、この部分だけで私には十分なのではとか思ったり。自分は幻かもしれないので人の目は気にせず、お洒落なカフェとかでSuchmosとか聴きながら読むべき。
3冊の本を読んで、おまけに一時ネットで話題になったロック調だかヒップホップ調だかの般若心経も読んでみて、私は般若心経を唱えてみたかったのか中身を理解したかったのかわからなくなっていた。
「なんでも分解して考えろ」とは勝間和代さんのような生産性の高そうな人がよく言うことだが、まさにそこらの分解ができてない私のサクセスストーリーは摩天楼には程遠く、目標や目的が幻のように霞んでいた。
それはともかく声に出せとばかりに、それぞれの本に書いてあった般若心経をふりがなを頼りに読んでみたところ、般若心経絵本がお経を区切る場所の感じとか文字の大きさとかで丁度良かった。何度か声に出して読んだあげくエロイムエッサイムと気持ちよくなったのは、やはりこういった呪文的なものがテレビアニメが一般的になった昭和中期より、人々の心を捉えて離さないからなのだろう。どうして般若心経を声に出して唱えてみたくなったのか理解できた気がした。
声に出して読もうとすると本によっては以外と読みにくかったりするので、さあバランガバランガ注意が必要である。
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