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伝説の僧侶(人柱Mix)

投稿日 2013年4月24日 水曜日

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カテゴリ上越地区の仏像, 即身仏

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「毒も飲み過ぎれば薬になるんじゃね?逆に」…そう言って松子がひとつ言葉を飲み込むたびに、彼女の体重は少し軽くなるのでした。

2011年9月。友人に県指定の文化財である山寺薬師を案内してもらおうと、上越市の板倉区を訪れました。

目的の山寺薬師を見た後、地図を眺めていてどうしても気になっていた、もうひとつの場所へ向かいます。
場所は地すべり資料館。写真の彼もその資料館の一員なのですが、こんな素敵な彼が居る資料館のすぐそばで、結構洒落にならん大規模地すべりが発生してしまったのです。

上越市板倉区で発生した地すべり

地すべりは私が訪れた半年後の2012年3月7日に発生。

幅150m長さ500mに渡り崩れた土砂は、結果4世帯の住居を巻き込み20日以上に渡ってすべり続けました。土砂崩れや雪崩のイメージが頭にあると、滑るのは一瞬の出来事のように思えますが、地すべりはジワジワ、ズルズルと滑り続けるもののようです。21世帯83人に避難勧告が出て、災害から1年たった今でもローカルニュースでは話題に取り上げられるような大規模災害となってしまいました。

新潟県上越市板倉区国川集落の地滑りは2012年3月10日、同集落の住宅地まで到達した。土砂と雪が押し寄せ住宅3棟が傾いたほか、作業小屋1棟が全壊した。県妙高砂防事務所は融雪や雨による急激な地下水位の上昇が原因とみており、発生場所付近の水を抜いて地滑りの進行を食い止める作業に着手した。地すべりは10日午後4時時点で1時間に30~40cmの速さで進んでいる。

人柱伝説と人柱供養堂

この板倉区は昔から地すべりが多くあった場所のようで、それにまつわる伝説が次のように残されています。

寺野地区に於ける地すべりの沿革は800年前、鎌倉時代に遡る。現在の猿供養寺部落には、次のような伝説が語り伝えられている。

当時、この付近は山寺三千坊と言い沢山の寺が建立され栄えていた。しかし、当時から地すべりが起こる土地で、そのの被害は山林だけでなく仏閣や宅地にもおよび、開墾した耕地も使いものにならなくなるという惨劇が繰り返されていた。
村人たちは精も根も尽き果て、土地に愛着はありつつも離散せねばならぬような苦難に追い込まれていた。

一人の旅僧がいた。
信州から猿供養寺村に入ろうと黒倉峠にさしかかった際、急な雷雨に襲われ風雨を防ぐためにしばらく林の中で休んでいると、あたりが急に騒がしくなった。

何事かと覗くと宇婆ヶ池(黒倉山山頂にあり宇婆神社あり)のほとりに大蛇共が集まり「丈六山に”大ノケ”を起こして我々の住む大溜をつくらん、但し人間達がこれを知って、栗の枕木を造ってこれを使い、姫鶴川に”四十八タタキ”をし、生きた人を人柱とされたのでは”大ノケ”も出来なくなる。まさか人間どもは知るまい」との話をしていた。驚いて逃げようとしたところ、運悪く大蛇たちに発見されてしまった。

「我々の話を聞いたからには無事にこの峠を超えて村へ下る事はならぬ」と言われ命も危ないところであったが、旅僧は「私は盲目でしかもおし(注.差別用語/言葉が不自由の意)であるので何も聞こえなかった、ましてや仏につかえる身であれば必ず他言せぬ」という約束をし、ようやく難をまぬがれて猿供養寺村に辿り着いた。

ところが村は聞きしにまさる惨状。村のあわれな姿を見、且つ村人達から衣の袖にすがっての嘆願を受けた旅僧は、黒倉峠での大蛇との約束も破棄し「栗の枕木で四十八タタキと人柱」の秘訣を授けたのだった。

村人はこれを聞き、早速村総出でタタキを始め仕事は順調にすすんで行きますが、人柱の人選については幾日幾夜相談しても決まりません。
これを聞いた旅僧は「私は大蛇との約束を破ったからには一命は亡きものと覚悟をせり、且つこの無限地獄そのままの災害を見ては僧侶の身として何で黙過出来ようや、衆生の苦難は我が身の苦難である。我、人柱となりてこの地すべりを防ぎ、この村を守らんとの決意を語う、我亡き後は七月一七日を我が命日として香花なりと手向けてくれよ」とて、みずから進んで”人柱”となられたという。

現地の説明資料「人柱伝説(西山清信)」を読みやすいように編集

伝説としては残されていたものの、はたして本当に人柱となった僧侶が埋まっているのどうかは長い間定かではなかったよう。ところが、昭和12年3月16日、細井誓示氏によって人柱であるこの僧侶が発掘されたそうです。寺野地区一円を見渡せる小高い丘の畑で、桑や桐などが植えられていたといいます。

町ではこの尊い旅僧の霊を慰める為、発掘の地にお堂と標柱塔を建てました。これが人柱供養堂で、それに併設されているのが地すべり資料館。供養堂では毎年丁重なお祭りがおこなわれているそうです。
また、町では昭和42年に遺骨などを文化財として指定。

発掘当時、遺骨は体の各部位もはっきりとしていて、座禅の姿でザルガメが上からすっぽり被さっていたそうです。周辺には賽銭として古銭が供えてありました。カメの制作年代は鎌倉時代とのこと。


人柱供養堂にはその僧侶の遺骨と、被さっていたというザルガメが展示されています。僧侶は50歳くらいの男性で、特に脚の部分の骨が大きく発達した修行僧であると考えられている。

この旅僧、即身仏と表現されることもあるようなのですが、修行として土中に埋まったわけではないのでやはり人柱なのでしょう。私としては何事もざっくり結果オーライで生きてきているのでどちらでも良いのですが、何にしても現代人の自分からしたらどうやっても理解できない心境なのには違いないのです。

地すべりと伝説の部屋

そして隣りの地すべり資料館。
こちらは日本で初の本格的地すべり資料館とのこと。妙高砂防事務所が運営する広報的な役割の資料館で、無料で入場できます。こういう公共施設はたっぷり味わい尽くしたほうが良い。

映像や模型、パソコンゲームなどを通じて地すべりのメカニズムや歴史、災害、防止工事などを学ぶことができるようになっていて、そのどれからも昭和臭が漂っている。液状化現象や土砂崩れを学ぶ実験模型などもいくつか置いてあり、大蛇になった気分で家々を砂の中に沈めることができる。なんということでしょう。

二階には「地すべりと伝説の部屋」
ここには人柱伝説の大きなジオラマが展示されている。友人の話によると、町の青年団が手作りしたのだとか。冒頭の写真にある彼は、今まさに旅僧にザルガメを被せんとしている青年の表情。手を離すな。しっかり、持て。

手前には落とし穴にハマった獅子舞が見える。

かなりよく出来た等身大のジオラマで、大小限らず素人ジオラマに目がない私としてもブラボーと言わざるをえません。

小学二年生になる友人の娘さんは、まだ小さい頃に連れて来られた記憶がトラウマになっているようで「怖い怖い」と部屋に入ろうとしませんでした。

1年かかりましたね

実は日々地味に暮らしてる(「東京出張の際は都会に負けないように朝から腕立て伏せ」など)…そんなことを悟られるのが恥ずかしくもあり、眼に入るもの全てを茶化して毒づいて、今を誤魔化して生きていたいと思うわけです。勉強やスポーツなど何一つまともに向かい合ってこなかったがゆえに、ことさら真剣に生きるということが怖い。
しかし、それと同時に中途半端にスラムダンクあたりの影響も受けているわけで、たまには汗臭く泥臭く素直に生きてみたいと葛藤するわけです。

そんな私ですから、ショッキングな事件なり災害なりが起こると非常にパニックになる。この目の前の出来事に対して、どういうスタンスで向き合うべきか、と。

「実際の地すべりと地すべり資料館が面白いの関係ねーじゃん」と決着をつけるのに、1年かかりましたね。

葛藤と時間の経過が毒にも薬にもならない文に反映されて、私もザルがあったらカメりたいです。売店にはね、受験生のための「すべり止めお札」とかも売ってるんですよ。売れ行きの推移が気になります。

2011.09.18

  • 生贄と人柱の民俗学 (歴史民俗学資料叢書)
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人柱論というなんとも物騒な資料集です。
著者の礫川 全次氏を調べていくと「糞尿の民俗学」という著書もあります。軸はブレずに振れ幅大きい感じが見事です。
  • 北の旅学 やまがた
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新潟にも数多くの即身仏が祀られていますが、即身仏といえば何と言っても出羽三山の山岳信仰、お隣の山形県です。即身仏を語らずに山形を語れず、酒田米菓のオランダせんべいを語らずにオランダを語るなです。
  • キャラ立ち民俗学
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みうらさんの2013年 新刊。民俗学のMJ的研究論文ということで否が応にも脱力します。即身仏は第一章で紹介。

[googlemap lat=”37.006662″ lng=”138.325467″ align=”center” width=”545px” height=”300px” zoom=”15″ type=”G_NORMAL_MAP”]新潟県上越市板倉区猿供養寺401−1[/googlemap]

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