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天昌寺のガンタンク的な聖観音

投稿日 2011年5月31日 火曜日

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カテゴリ中越地区の仏像

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天昌寺

「嫁ハンにゴールデンウィークにどっか行きたいところある?あ、もちろん遠出とお金かかるところは無理だよ。」
と、聞いたら塩沢町の牧之通りにあるOHGIYA CAFEに行きたいとの回答。
お、塩沢とはすごーく手頃な感じじゃないですか。…というわけで魚沼方面に出掛けてきました。

流石に相手もこちらの事情は、いろいろとわかっているらしい。
OHGIYA CAFEでワッフルなどを食べ、その後は以前から行きたいと思っていた同じ塩沢の天昌寺へ。

鍵を借りて階段を上り、ご本尊が祀られているお堂に向かいます。

本堂の中央には聖観音。両脇には多聞天、持国天の二天がが祀られていました。

本尊の聖観音は、事前に話しを聞いていたとおり、元々は立像であったかのようにも見える腰つきな坐像。
上半身と下半身とが、ともすればアンバランスに結合されたその腰は「なになにコアファイター入ってんじゃね?」とも思える、ガンタンクのような坐像でありました。

いただいた案内の略沿革によると

天昌寺は今から五百有余年前の延徳二年(1490)雲洞庵七世禅実和尚を請し、曹洞宗寺院として開創。それ迄は、養老六年(722)藤原鎌足の曽我房丸公が悪疫退散のため、越前の聖者泰澄大師に懇願して彫らせたという「聖観音像」を本尊として数百年の間密教の寺庵が存し、実際庵と称されていたという。
就中長和二年(1013)大和の高僧恵心僧都、当地へ巡国の折観世音の霊験を感じ、多聞、持国の二天を彫らして脇侍に安置。その後寛元年間(1243~)頃、北条時頼公により越後観音札所に定められ、十二番霊場として益々観音信仰が広まったといわれている。
しかし、延徳二年堂守が没し無住となり、堂宇存続のため雲洞庵から住職を請し復興。天正元年(1573)今の寺号に改められ、十四年(1587)上杉家より観音免として高十石を拝領して免除地となる。明暦三年(1657)堂宇焼失、万治二年(1659)再建、現在観音堂を別して、三百余年の歳月を風雪に耐えている。

お寺の方に尋ねたところこの腰については諸説あり、元々このように作られたという説もあれば、やはり立像だったものが後年の補修で坐像に作り替えられたとも。胎内から見つかった修復銘札には、そこまでのことは言及されていなかったようです。

本堂には小林源太郎作の計7枚の欄間。越後の左甚五郎と称される「石川雲蝶」と同時期に活躍した彫刻師です。雲蝶は三条市を中心として活躍し、源太郎は魚沼を中心として活躍したそう。麒麟の欄間などは、雲蝶の表現とはまた違った、繊細で見事な彫りでした。

小林源太郎の欄間

地元の長岡ではもう桜は散っていたのですが、今年は雪深かったためかこちらでは今が丁度見頃のよう。訪れた前の週までは観音堂の雪囲いも外せず、お堂にも入れなかったらしいのです。
聖観音さんもこちらの事情を、いろいろとわかってくれていたのでしょうか。

2011.5.2

天昌寺(てんしょうじ)

仏像 聖観音座像、多聞天立像、持国天立像(いずれも県指定)
場所 新潟県南魚沼市思川39
問い合わせ先 天昌寺(TEL:025-782-0147)
拝観時間 要事前連絡
拝観期間 通年。ただし、冬季期間中は観音堂には入れません。
拝観料 無料(朱印料別)
公式サイト なし

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